カヤック誌74&75号掲載
文=南平純
写真=旅ねしあ
今年の冬は例年より寒くなるでしょう。そんなニュースを聞きながら旅の計画を仲間たちとzoomで打合せしていく。
1年前から始まったフィリピン遠征の準備は着々と進んでいたが、秋になっても依然海外への渡航は難しい状況。再度計画を練り直し、国内での冬の遠征へと切り替えることとなった。せっかく旅をするのであれば先の海外遠征を見据えて、より厳しく過酷な行程にしようと決めた。
計画は1か月間で大阪から鹿児島まで700キロを漕ぎ、準備、片付け、移動、すべてを自力で行い旅を完結させるという内容だ。5日間を準備と片付けに使うと、カヤックで旅に出られるのは実質25日。天候を考慮すると漕げるのは20日と予想。日平均35kmが旅の目標だ。
果たしてこの季節に瀬戸内を西進できるのか、九州へ渡る為に停滞が何日続くのか、事前に考えられる要素を洗い出し徹底して準備を行った。緊急事態宣言中の宮崎が通れない場合は高知を目指す計画もバックアップとして考えた。
遠征メンバーは運天遼(Sunwave Kayaks)、佐藤瑛彦(パタゴニア、Islandstream)、山本啓太(Kiaora Paddle)、南平純(OUTISE)の計4名。遠征名である「旅ねしあ」は、島々を人力で旅し自然の素晴らしさやアウトドアの魅力を発信しようと2014年にスタートした活動だ。今回の遠征でも各自が遠征の状況をSNSで配信しフォロワーと旅を共有することも重要なミッションとなった。
南国好きの4名にとって冬の遠征はどこまでやれるのか。そもそも冬用テントもドライスーツもない。ギアを全て揃えていたら嫁さん達に怒られるので、懐事情が寂しい僕達の味方ワークマンを活用しながら着々と準備を進めていった。
1月13日。和歌山のIsland Stream平田さんにカヤックをお借りして大阪へ向かう。久しぶりにメンバー全員と顔を合わせ握手をすると俄然やる気にスイッチが入る。買い出しを済ませ、夕方に淀川河川敷に到着しパッキング。本来はもう一日かけて準備をする予定だったが、先の予報が悪かったので一日前倒しで旅を始めることとなった。夕飯は佐藤の自宅が近いので奥さんに甘えることに。今遠征では一か月の育児放棄をする身勝手な旦那を温かく送り出してくれる家族ももちろん大切な仲間なのだ。
1月14日。5時半に起床し氷点下の中、凍ったテントを撤収。寒すぎて既に心が折れそうだ。今回の旅では夜明けに出発し遅くても16時には上陸できるように動きたいので、これから辛い早起きが毎日続く。だが辛さを求めて遠征しているのだから弱音など吐けない。
7時頃に佐藤の家族に見送られ、いよいよ長く厳しい旅が始まった。都会の海を漕ぐことなど今までなかったのでビルから上る朝日は新鮮だ。視界が悪く地図にない堤防が次々と現れ混乱したが、順調に進み昼には明石海峡手前に到着。向かい潮がまだ速いのでビーチに上陸し、明日からの行程をミーティング。
明後日からは北西風が強まる予報で、岸ベタで進むしかなく楽しみにしていた小豆島は諦めることとなった。今回の目的は700キロ漕ぎ切ることであり、1キロでも前へ進むことを優先しなければならないのだ。そんな時に諦めの悪い男、佐藤から「明日一気に小豆島へ渡らないか?」と提案があった。明石から小豆島へは直線で60キロと頑張れば行ける。「よし、行こう!」諦めが悪いのは佐藤だけではなかった。このノリの良さこそ「旅ねしあ」なのだ。
転潮の時間を迎え再出発したが、向かい潮は変わらず明石海峡は向かい潮3ノット。結局その後も潮に逆らうこと2時間、明石川河口で力尽きる。移動距離は43キロ。初日から大潮の明石海峡の洗礼を浴びる羽目となった。
1月15日。3時半起床、5時半出発。早朝というか夜中に起床する。朝の準備は朝食を作らず行動食にすれば1時間半、朝食を作ると2時間必要となる。5時半に出発しようとすると夜中に起きることとなるのだ。
出発して明るくなるまで1時間半。小豆島の方角には目標物はない。新月闇夜なのでコンパスと夜景のみが目印となる。各自ヘッドライトの赤色灯をつけ、僕のスターンにはランタンを常時点滅させて船からも見えやすいようにした。
いざ暗闇の海に出ると潮が速くどの方角に流されているか分からない。背後の景色に変化はなく違う方角へ流されてはいないはずだが、不安を払拭出来ずにいた。今回の遠征ではログ付けの為にGPSを持参していたので、潮の方角と速度を計測する。思っていた方角へと進めていたので一安心。GPSの扱いには賛否あるが、今回はトレーニング遠征ということで様々な状況下で細かくデータを計測し、GPSと体感の誤差を極力失くし、より正確な体感メーターを習得したいという考えだ。
淡路島から朝日が上る。本日も視界は悪く360度真っ白な海を漕ぎ進む。10時頃に家島諸島が見え始め、ようやく現在地が把握できた。その後はゆっくり南に流されながら松島の南側を通過。この頃には小豆島の山並みも見え始め、14時すぎに小豆島東の小島に到着。移動距離は59キロ。2日目にして暗闇と視界のない島渡りを終え、自信と結束力が高まる。予想外の出来事も共に笑って乗り越えられる頼もしい仲間達といれて幸せだ。
1月16日。3時半起床の5時半出発。北風が上がる予報なので風裏になる岡山側へ移動することに。わずか15時間の滞在と後ろ髪を引かれながら小豆島を発つ。
夜が明ける頃に前島を目指して横断。結局予報は外れて終始無風だったため上げ潮を使って一気に西へ移動。事前にチェックしていた玉野周辺でビーチを探し上陸。移動距離は50キロ。
夕飯は運天料理長が炒飯を作ってくれるとの事で楽しみに待っているとグラタンがなぜかでてきた。何が起きたか経緯を説明すると、今回は水も加熱も必要ない非常食用の米を用意した。たまたま賞味期限間近のセール品で米を買うより格安だったので、4種類の味を約100食分購入。しかしいざ食べてみると腐っているのか不味くて食べられないので、調味料を大量にぶち込み味を消して食べることとなった。この日は初めて米を加熱調理したが、不思議なことに熱を加えると米が溶け出し液状化してしまうではないか。そしてキノコ味の米だからなのか奇妙なことにグラタンへと変身したのだ。こうして今遠征で最も深刻な米問題を抱えることとなった。早く消費して白飯が食べたい。それが一番の願いとなった。
1月17日。4時半起床、6時出発。8時頃には風が吹きあがってくる予報。それまでに12キロ先の児島大畠海水浴場を目指す。上陸地近くには美味しいうどん屋があるとのことで朝食にうどんを食べるというサブミッションを設けることに。
堅場島からは徐々に向かい風が強まり後半は修行のような漕ぎとなったが、なんとか8時過ぎに到着。コンビニで酒を買い港で乾杯し、うどん屋で朝飯を食らう。うどん屋のお母さんに旅をしていることを伝えると、有難いことにうどんを御馳走してくれた。人の温かみをより感じることができるのも旅の醍醐味である。その後は岡山に住む友人たちに買い出し、温泉、コインランドリーに連れてもらう。人の優しさに触れリフレッシュできた。
1月18日。5時起床で友人と朝からまたうどん屋で朝食。本日も10時頃から風が強まる予報だったので15キロ先の香川県の広島を目指す。7時半に出発し、潮どまりを狙って瀬戸大橋を通過。流れのない瀬戸大橋は明石海峡に比べて幾分天国のように感じた。広島の江の浦ビーチに10時上陸。
人口500人弱の小さな島で、島の方はみんな気さくに話しかけてくれる。明日にかけて風が強まる予報で2泊したかったが、コロナもあるので不審に思われないよう役場に事情を説明し許可を得ることに。役場の方々も優しくビーチまでわざわざ来てくれた。午後から島を散策し神社を参拝。夜は嵐のような天気となり防風林の内側にテントを張らせてもらい雨風をしのいだ。明日はこの旅始まって以来の停滞日。寒い朝に起きなくていいだけで気持ちが楽になる。
1月19日。明日からの作戦会議。今日の夕方からは風が弱まり明日は一日穏やかな予報だ。ここ数日は漕ぐ距離も短く体力も余っていたので一気に距離を伸ばしたいところだが、この先しまなみ海道があるので潮の時間も重要となる。そこで「旅ねしあ」らしい面白い計画を立てた。
夜中に広島を出発し早朝に弓削島へ、朝の潮どまりに間に合えばそのまま船折瀬戸を抜けるというものだ。潮の流れが逆転する走島周辺に満潮時間を合わせることで、全行程を追い潮に乗れて距離も稼げる。月の入り後の闇夜が予想されたが、連日の暗闇漕ぎで慣れているので問題ない。日中ならば普通に漕げてしまうので、あえて闇夜を漕ぐことの方がよほど面白く価値があるように思えた。
夕飯は変幻自在の米を溶かしてお好み焼きを作り、18時就寝。一日ダラダラ過ごして早く寝れるのか心配だったが、みんな爆睡。人の適応能力の高さには心底驚かされた。
1月20日。日付が変わる前23時半に起床。朝方は-4℃予報。どうせ寒くて眠れないなら漕いだ方が暖かいと開き直る。夕方に作っておいた凍ったパスタを飲み込み、0時半に出発。出発早々山本のヘッドライトがまさかの電池切れ。緊張感ある中で笑いを誘って空気を和ましてくれた。街の明かりがあるのでうっすら島影は確認できる。ナビゲーションに集中しながら佐柳島、真鍋島、北木島と順調に進む。4時頃に走島近くに到着し海上でトイレ休憩。
小便を水中に流すと夜光虫が反応し輝きを放つ。満点の星空に夜光虫が煌めく世界は宇宙空間にいるかのような錯覚に包み込まれた。辛くてもこの景色と緊張感を味わえたらそれだけで「やってよかった!」と思えるのだからつくづく自分は単純である。
走島からは一気に弓削島を目指すが、朝方の眠気との闘いは辛すぎた。気付けば目を瞑っている。四国の山並みから朝日が昇り出しようやく目が覚める。出発してからずっと視界が悪かったので雪が積もる四国の山並みを目にしたのはこの日が初めてだ。8時半に弓削島のビーチへ上陸。結局朝の潮どまりには間に合わずここで午後まで潮待ちすることに。
昼寝をして14時に再出発。船折瀬戸も問題なく通過し、伯方島西側のビーチに16時半到着。キャンプ地から見える水平線に沈む夕日に一日の疲れも吹っ飛ぶ。本日の移動距離68キロ。今の皆なら100キロは余裕で漕げそうだ。
1月21日。4時起き6時出発。そろそろ風呂に入りたいので今日もしっかり漕いで倉橋島を目指す。大崎下島から一気に倉橋島へ横断。相変わらず視界が悪いので倉橋島は見えずコンパスを頼りに漕ぎ進む。東風が強くなり追い風に乗って楽に行けるかと思ったのも束の間、風は落ち無風の海を辛抱強く漕ぐ。後半は向かい潮で我慢の漕ぎを強いられたが、15時半に倉橋島の桂浜に上陸。移動距離は55キロ。体力は余裕だが、精神的に最後の逆潮は萎えた。近くの定食屋で久しぶりの肉と白米を食べ、温泉に入り一杯生ビールを飲んで早々と就寝。みな疲れたのか珍しく口数も少なく静かな夜となった。
1月22日。6時半起床、8時出発。今日は周防大島の南側を目指す。距離が短いので遅めの出発。ただ3日後から天気が崩れそうだったので、明後日には必ず上関に到着しなければならない。小雨が降り安定の視界不良。連日視界が悪く瀬戸内の景色は結局ほぼ見れずに終ることとなった。倉橋島から南下し周防大島の南側へ進み、15時に安下崎近くのビーチへ上陸。雨で濡れた体を焚火で乾かす。
今日もトラブルなく終わり安堵して天気予報を眺めると、明朝から風が強くなる予報へと変わっている。何もないこのビーチに数日間缶詰めは御免だ。急遽疲れた体に鞭打って今から15キロ先の上関へ渡ることにした。上関に温泉と美味い飯がある以上は漕がない理由は見つからない。
夜漕ぎに突入するのでヘッドライトを各自準備し、16時再度出発。周防大島から上関へ渡る頃にはすでに暗くなっていた。19時に暗闇の中ビーチを探し無事上関に到着。軽く漕ぐつもりが結局移動距離58キロと濃い一日に。
9日目にして旅の半分を漕ぎ終えることとなり、差し入れで頂いたビールと焼酎で打ち上げをした。明日から数日間は停滞となるが、ストイックにここまで漕いだので日程にはまだ余裕がある。焦らずゆっくり体を休め、絶好のタイミングを見て九州へ渡ることとなる。厳しい冬の旅もいよいよ旅も後半戦へ突入だ。
1月25日
低気圧が通過し二日間の停滞を余儀なくされた。上関には買い出しできる店がなく、この二日間はかなりひもじい思いをした。ただ温泉があったのが救いでゆっくりと体を休めることができ、後半戦への準備は整った。本日天気は回復したが、まだ北東風7-8mと九州へ横断するには少し厳しい予報。明日は雨だが風が弱いので、佐田岬経由で佐賀関を目指す行程で九州へと渡ることが決まった。そして今日のうちに少しでも距離を縮めるために長島の南端へ10キロ弱移動することに。たった2時間漕ぐだけだからと朝食はスープだけサッと飲み出発。しかし海に出ると風がない。山の上の風車も回っていないし、空を見ても風が吹く気配がない。カヤックの横ではカンムリウミスズメが悠々と泳ぐ。この光景を見て、ふと今日は九州へ渡れそうな気がした。皆もきっと同じように感じていたはずで、急遽ミーティングを行い九州を目指すこととなった。四六時中自然の中にいるお陰なのか、天気予報が全てではないことを知っているし、観天望気や直観にも自信がついていた。これもまた旅での成長の一つである。ということで軽い気持ちで出発した本日だったが、いつもの勢いでまたもや50キロ超えの横断がスタートする。もちろん朝食にスープしか食べなかったことを皆後悔したのは言うまでもない。祝島を右手に眺めながら、伊予灘を漕ぎ進めていく。南への潮流を利用しつつ大分空港を目指す。視界の悪い瀬戸内で鍛えられたのか、全員がGPSに頼らずコンパスだけで自信を持ってナビゲーションできる。やはり実践に勝るものはないのだ。海の上にいると集中しているので時間が経つのも早く、気付けば昼飯も食わずに夕方に。大分空港付近の後半2時間はひたすら向かい潮だったが、気力で乗り越え19時に空港南のビーチへと到着。移動距離は55キロ。結果予報は外れて終日微風。自分たちの感覚を信じて正解だった。
1月26日
6時半起床、8時出発。夜更けから雨が降り出し、予報通り雨の一日。視界は最悪で何も見えない中の別府湾横断。3時間は現在地が分かるような物がなくただただ真っ白な海をうねりを頼りに漕いでいく。5キロほど手前でようやく関崎を確認できた。向かい風で一向に近づかず体力を奪われるも13時半に関崎を通過。本来なら絶景の中を漕げただろうに勿体ない。ただ今日の関崎越えを逃すと明日からはまた風が強まり数日間停滞となってしまうので仕方ない。佐賀関の白木海水浴場に15時頃上陸。移動距離35キロ。向かい潮と向かい風で距離は伸びなかったが、これでこの旅の難所は全てクリアできた。ここから先の海域は潮流を気にすることなく漕げるので、肩の荷が一つ降りた気がした。関崎を越えてからは急に黒潮の気配を感じれる海へと変化。九州南下は徐々に南国へと変わる海にも注目して楽しみたい。雨も止み大きな虹が空一面に広がる。人は単純なもので厳しい環境に置かれた時こそ、自然の営みに深く感動し都合よく解釈する。そんなことは分かってはいるが、この虹の存在が優しくとても有難く感じれたのだった。
1月27日
6時起床。今日から北風が強くなる予報。状況を見て行ける所まで行こうと8時出発。出発して1時間くらい経つと風が強くなりあっという間に10m/s以上吹き始める。この先の日程も余裕があることから無理をせず今日は早めに上陸することに。臼杵湾の中央の岬、楠屋鼻南側のビーチに10時頃上陸。移動距離は15キロと体力温存の一日となった。
1月28日
4時起床、6時出発。風は落ち着き緩い北風で一気に南下することに。ここからは楽しみにしていた日豊海岸の絶景が待っている。九州最西端の鶴御崎周辺は圧倒されるような断崖絶壁の海岸線が続く。規模の大きな海蝕洞も見られ漕いでいても飽きない。鶴御崎を越えてからはさらに水中は南国感が増し綺麗なソフトコーラルも多く見られた。順調に追い風に押されて屋形島近くまで到着。明日はまた北風が強くなる予報なので、風をかわせるビーチに16時上陸。移動距離57キロ。奥行のない浜だったので満潮時は堤防を作りなんとかテントを死守。上陸しても安心して休ませてくれない所がまた楽しくなる。自然はどんな時も人間の都合に合わせてくれることなど絶対ないのだ。
1月29日
5時起床。昨晩は爆風でテントのペグがすべて飛ばされた。いつもは寝る前に必ずハッチにしまう荷物も外に出したまま。幸い荷物が海に流される事はなかったが、少しの油断が命取りになることを再認識。夜が明けてもまだ風が強く出発できずにいた。終日風が強い予報だったので停滞でも良いかと内心思っていたが、佐藤と運天は行く気満々。風が少し落ち着いた7時半に延岡を目指し出発。前半は強風の中、沖出しの風に気をつけながら小さな湾を何個か横断。宮崎県に入り喜ぶも束の間、島浦島近くは強烈な向かい風。さらに火打崎を過ぎると延岡から吹きだす爆風の向かい風。延岡までのあと5キロがあまりに遠く神戸漁港に一時避難。夕方には少し落ち着く予報だったので風待ちすることに。しかしいくら待っても風が弱まる気配がない。このまま漁港で泊まって穏やかな翌日に漕ごうかという話もでた。しかし諦めの悪い山本は延岡行きへの決意が固く、16時半強硬出発となる。結局延岡の海岸までたった5キロを2時間費やした。そこからさらに大瀬川を遡上し市街地近くの河川敷へ移動。この日は気温が低く日没頃には気温3度。爆風で全身ずぶ濡れとなった体が凍りそうだ。19時に目的の河川敷に到着し、強風と戦った長い一日が無事終わった。移動距離35キロ。朝から何度も停滞を考えた自分とは対照的に諦めず延岡を目指してくれた仲間達に感謝である。皆の諦めの悪さとせっかちな性格が相乗効果となり旅を順調に進めてくれているようだ。
1月30日
停滞日。ここ数日は暖かい九州を満喫していたため久しぶりの氷点下の朝は体に堪える。洗濯と風呂とチキン南蛮で旅の疲れを癒す。非常食の米(詳細は前編にて)が留守中にカラスに2袋食べられる。あまりの不味さにカラスもほとんど残していた。全員残念そうな顔をしていたが、心の中ではガッツポーズしていたに違いない。友人からの差し入れや近くの居酒屋に世話になり有意義な一日を過ごせた。
1月31日
7時起床、9時出発。明日はまた南風が上がる予報で停滞となる。快適な停滞日を過ごすため日向へ移動。キャンプ地の大瀬川は河口が閉じており、途中の水門から五ヶ瀬川へ乗り換えて海へと出た。無風の海はいつぶりだろうか。延岡の南の半島も断崖絶壁の美しい海岸線が続く。昼過ぎに日向の御鉾ヶ浦海水浴場に到着。移動距離25キロ。近くのキャンプ場が宣言下で休業していたため、海水浴場の隅で二日間テントを張らせてもらう。
2月1日
春一番のような強い南風で停滞。朝から「馬ヶ瀬」「クルスの海」を歩いて観光。海水浴場で散歩をしていた家族が物珍しそうに声を掛けてくれた。話をしてみると山本の知り合いではないか。世の中狭いとはこのことだ。そしてまたまた差し入れを頂き、この旅一番の豪華な晩飯にありつけたのであった。宮崎に来てからは色んなご縁で本当に助けられ、感謝でいっぱいだ。
2月2日
風も少し落ち着き6時起床、8時出発。いよいよ出発前から恐れていた70キロ続く単調な砂浜へ挑む。当初は北風で押されて一気に南下して楽勝!という計画であった。しかし世の中そう甘くはなく、向かい風予報となった。二日間で漕ぎきることを目標に本日は中間地点の川南漁港を目指す。都農あたりからは風も上がり、辛い向かい風だった。14時すぎに川南漁港へ上陸。移動距離35キロ。上陸後は漁協に挨拶へ行き、スロープでのキャンプの許可をもらう。このあたりはカヤックが珍しいようで漁師も親切にしてくれた。この日なにより嬉しかった出来事は、非常食の米をすべて消費できたことだ。食べても食べても減らない不味い非常食に心が何度も折れかけたが、諦めずに食べ続けて良かった。ようやくホクホクの白米にありつけると思うとモチベーションも爆上がりだ。
2月3日
旅の日程にも余裕があり最近は6時起床が続いている。8時に出発し長い砂浜の終点である青島を目指す。出発して早々にシーガイアのビルが目に入るが一向に近づけず長く感じる。長距離を漕ぐ時は目標物がない方が余計な事を考えずに済むので楽だ。宮崎港を過ぎたあたりからは、また魔の南風。7-8mまで上がり一気にペースダウンで10キロ先の青島へもまた一向に近づけない状況が続く。結局3時間かかり16時頃に青島に到着。移動距離42キロと最近は南風に苦しめられ距離が伸びない。近くの温泉に入り青島ビーチパーク内にテントを張らせてもう。いよいよゴールの志布志港まで100キロを切りこの先の行程を再確認。まだまだ日程も体力も余裕があるので、正直なところは佐多岬を超え桜島近くまで行きたいという想いもあった。しかし志布志までカヤックを運搬することが難しく断念。4日後から数日間はまた北風が上がり都井岬を回るのが困難な予報だったので、3日後の2月6日をゴール予定日とすることに。
2月4日
6時起床、水平線からダルマのような朝日が昇る。8時に出発しまずはWFK宮崎へご挨拶。今回は全員がWFK製のカヤックを使っているということもあり、突撃訪問にも関わらず松本さんが温かく迎え入れてくれた。初めて来たけど、なぜか懐かしい。そんな雰囲気のある廃校が工房として再利用されていた。昼前からまた風が上がる予報だったので少しだけ南下して鵜戸漁港横のビーチへ上陸。移動距離21キロ。夜は友人が合流して楽しい宴となった。
2月5日
6時起き8時出発。友人の勧めで幸島を目指す。南郷周辺は想像以上に透明度が高い。水中を覗くとサンゴも多く沖縄の海に慣れ親しんだ僕達は故郷に帰ってきたような気分だ。お昼頃に幸島に到着し猿がビーチでお出迎え。海外のリゾート地にいるような素晴らしいロケーションだったが、キャンプするには猿が気になるのでさらに先へ進むことに。午後からは安定の向かい風で体力を削られながら15時に宮之浦漁港へ上陸。移動距離は32キロ。地元の漁師から明日は天気が崩れるから都井岬はやめておけとアドバイスをもらうが、予報は悪くないので細心の注意を払って明日ゴールを目指すことに。経験豊富な漁師の言葉ほど怖い物はない。いよいよ明日で長く厳しい旅が終わる寂しさを感じつつ就寝。
2月6日
雨が降る中6時起床。8時に出発しまずは都井岬を超える。3年前に初めて都井岬を訪れた時に、いつか地元伊勢からこの海を人力で繋ぎたいと思った。運良く今回は自分の願いが叶う形となった。またこの場に大切な仲間達といられることにもとても感動した。実はチーム遠征を計画したことは6年前にもあったのだが、結局タイミングがあわずに流れてしまった。その後は各人が新たな場所で旅や挑戦を続けて個人で旅ねしあを実践した。そしてまた数年越しに想いを一つにしてここに集結でき、念願のチーム遠征が達成できたことに目頭が熱くなった。旅のフィナーレへの感動を噛みしめながら志布志湾を横断し、14時にひっそりと志布志港へ感動のゴール。もちろん誰かに温かく歓迎されることなどない。近くにいた釣り人に事情を説明して記念撮影を申し訳なさそうにお願いする。僕達と釣り人との間には計り知れない温度差があったに違いない。
エピローグ
ゴール後のカヤックは3日後に出発する貨物船に預け、人間はサンフラワーで帰阪することに。貨物船待ちの3日間は志布志市内の公園にてキャンプ生活。知人や友人が会いにきてくれて良い出会いもたくさんあった。ほぼ計画通りの24日間750キロの海旅。唯一の想定外は真面目に全日程をテント泊したことくらいで、僕達の身の丈をしっかりと理解できた良い遠征となった。「また極寒の遠征をやりたいか?」と聞かれれば「もう満足」と即答する。でも挑みたい海はまだたくさんあるので、これからも遠征は続けるだろう。なによりカヤッカ―である以上は旅は一生続くものだ。さて次の冬はどこへ行こうか。果たして家族を説得できるのか。鈴虫の音色を聞きながら旅の計画と家族への言い訳を考える日々になりそうだ。遠征するにあたり刺激をくれた先輩方、育ててくれた師、そして理解ある家族に改めて深く感謝したい。
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